平成26年3月より月2回「まかない」を始めました。NHKの「サラメシ」を真似て、「クリメシ」と名付けました。令和6年4月18日(木)は「お花見弁当」で、13名が参加しました。3分間スピーチは大久保院長。
今回のまかないは、”お花見弁当”を作ることにしました。
“生姜ごはん”は、精白米は研いでザルにあげておきます。しょうがはせん切り、油揚げは油抜きをしてみじん切りにします。調味料を炊飯器にいれて米と炊きます。今回はご飯を型に抜きました。
”たらの照り焼き”は、たらに酒と塩をふります。えのきだけは石づきを取り除いて分け、ねぎは斜め切りにします。調味料に漬け込み、えのきとねぎを乗せて220度のオーブンで15分焼きます。ミニトマトを飾り切りして添えました。
”ささみの青紫蘇巻き”は、まず、ささみの筋を取って開きます。合わせた調味料を揉み込んで4~5分おき、しその葉をずらして2枚乗せて巻きます。クッキングシートを敷いた天板に並べ、200度で10分焼き、1度取り出してハケで調味料を塗った後、220度で5分焼きます。
”エッグカップ”は、ゆで卵を作り半分に切ります。中の黄身を取り出して、マヨネーズ、塩、こしょうと合わせます。合わせたものを白身の上にふわっと乗せ、黒ごまをふります。
”蒸しかぼちゃ”は、かぼちゃの皮をきれいに洗い、種をとって食べやすい大きさに切り、面取りをします。蒸し器で20分程度、柔らかくなるまで加熱します。
”人参とレーズンの和物”は、人参をせん切りにして軽く茹で、水気を絞ります。酢と油でフレンチドレッシングを作り、人参、レーズンと和えます。
”ほうれん草ののり和え”は、ほうれん草を塩を加えた熱湯でサッとゆで、冷水にとってアク抜きします。水気をよく絞り、2~3cm長さに切って、醤油とのりの佃煮で和えます。
”すまし汁”は、鰹と昆布で出汁を取ります。人参を花型で型抜きし、よもぎ麩を食べやすい大きさに切ります。酢を入れたお湯にみょうがをくぐらせて彩りを良くし、半分に切ります。
”果物”は、キウイの皮を剥いて半月切りにします。オレンジは、きれいに洗って6等分のくし切りにし、飾り切りしました。
食後に、木村栄養士が抹茶をたて、一緒に「ひがしや」の和菓子をいただきました。今回の和菓子は「燕子花」という和菓子で、お店では売っていないものを特別に作ってくださいました。中にはこし餡が入っており、上用饅頭の上に薄紫に色付けされた外郎の生地を乗せて作られているそうです。上に乗っている外郎の食感がもちもちで、彩も鮮やかでした。大きめの饅頭の中には餡子がたっぷり詰まっていましたが、甘さ控えめでお抹茶とも相性が良く、最後まで美味しくいただけました。
まかないアンケート(計13名)
1.お花見にもっていくならどんなお弁当を選びますか? 和風弁当:11名、洋風弁当:1名、その他:ピザ
2.腹何分 腹8分:1名、満腹:12名
3.今日のまかない、星いくつ:全員星3つ
4.感想:生姜ごはんは、生姜がよく効いて美味しかった。
たらの照り焼きは、たらとえのきだけの組み合わせがよいですね。
ささみの青紫蘇がいいアクセントで、作ってみます。
たまごも、ただそのまま切ってるだけでなく、一旦混ぜてあってどれも手がこんでいて見た目も良くて美味しかったです。
和えもの、サラダもうす味でおいしかったです。
みょうがのお汁、めずらしくて、でもさっぱりとしていて、生ふととても合っていました。
華やかで美味しいお弁当でした。
生野菜あっても良かった!
3分間スピーチ(要旨)「ジョン万次郎」 大久保院長
今回、ジョン万次郎を題材にした理由は週刊文春に「龍馬がいく」のマンガが連載されており、その中にまだ薩長同盟や倒幕などが起こる前の坂本龍馬がジョン万次郎のことを書いた本「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」に出会う場面がありました。
それまでジョン万次郎について、自分の知っているのは「漂流して、アメリカに行って戻ってきた。」くらいのことで、どのような影響を及ぼしたのか知りませんでした。そこでインターネットで調べて、ジョン万次郎の本を読んで、初めて知ったことも多く、3分間スピーチのテーマにしました。
(1)出身
生まれた場所;土佐の国幡多郡(はたごおり)中の浜、現在の土佐清水市中浜
生まれ;文政10年(1827年)生まれた正確な月日は不明
9歳の時に父親が亡くなり、母親一人で5人の子供達を育て、貧乏であった。
13〜14歳の頃から漁船に乗り、幾らかの手当てをもらっていた。
(2)出漁、遭難、無人島に漂着
14歳(1841年)の1月27日に、伝蔵(38歳)、重介(25歳)、五右衛門(16歳)、虎右衛門(26歳)とともに5名で漁に出た。
嵐で難破し、2月6日無人島(鳥島)に漂着。岩に溜まった雨水やアホウ鳥を捕まえて食べた。海藻や貝を食べたり、水不足が深刻で、草の茎を噛んだり、夜露のついた岩肌を舐めたりしていた。
(3)アメリカの捕鯨船に救助されホノルルへ
6月7、8日頃、沖に船を発見し、棒に衣類を結んで振って、救助された。紅毛碧眼(こうもうへきがん)の異人で、言葉も通じなかった。船は長さ30間、3本の帆のあるアメリカのマサチューセッツ州の捕鯨船で、船名がジョン・ホーランド、船長がホイットフィールド。
乗船して、7日くらいして体力も回復し、水夫の仕事を手伝ったり、捕鯨の様子を観察した。鯨は油だけとって、樽に入れ、後は海に捨てていた。
6ヶ月後、11月にホノルル港に到着し上陸した。住居を与えられ、住むことを許された。船長ホイットフィールドは快活で胆力ある万次郎を気に入り、出身のマサシューセッツ州に連れて行き、文明教育を施すことにした。
船長は彼らの実直で勤勉で利発な国民性を愛し、残りの4名は船長の計らいで、ホノルルに住むことを許され、官費を与えられ、後に仕事も始めた。
(4)捕鯨をしながらアメリカ、マサチューセッツ州に到着、アメリカ本土での生活
ジョン万次郎は捕鯨船に乗り込み、大西洋、太平洋と捕鯨をしながら、1844年にマサチューセッツ州に到着した。
そこで、現地の小学校に通い英語を習い、アカデミーで数学や測量なども習得した。
20歳になり、1846〜1849年捕鯨船に乗り、世界各地を巡り、いろんな人種や社会を見て、見聞を広めた。
ホノルルに立ち寄った際に、一緒だった仲間とも再会した。仲間は日本に帰ろうと船に乗り込んだが、上陸できず失敗したりしていた。
当時、カルフォルニアはゴールドラッシュの時代で、万次郎も船でカルフォルニアまで向かい、鉱山で働いた。幾らかのお金を稼ぎ、それを元にホノルルへ向かい、日本に帰ることを試みることにした。
(5)帰国へ向けて
伝蔵と五右衛門ら二人と一緒に、上海行きの船があり、小船を買いそれを積み込んだ。1851年、琉球(沖縄)沖に近づいた時に、小舟を降ろし、上陸した。そこで、琉球、鹿児島、長崎でこれまでの事情聴取を受け、高知には帰国2年後の1853年に戻ってきた。出漁して、12年ぶりだった。
(6)日本へ帰国してからの生活
高知に帰って、絵師の河田小龍により聞き取りが行われ、漂流からアメリカでの生活、帰国までのことをまとめたられたのが「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」。2年後に坂本龍馬が河田小龍を訪ねた。選挙で大統領が選ばれることなど、アメリカの生活の話を聞いた。
土佐城下の藩校「教授館」の教授となり、後藤象二郎(大阪府知事、通信大臣、農商務大臣)、岩崎弥太郎(三菱財閥を創設)らを直接指導した。
江戸に招聘され、幕府直参となり、故郷の中浜を性として授かり、中濱万次郎と名乗るようになった。幕府は、ペリー来航により、アメリカの情報を必要としていた。
1860年、日米修好条約条約の批准書交換のため、「咸臨丸」の通訳や技術指導員として乗り込み、勝海舟や福沢諭吉も乗っていた。
1870年、普仏戦争視察団としてヨーロッパに派遣された。帰りにニューヨークに滞在した時に、20年ぶりにホイットフィールド船長と再会した。
1871年44歳の時に脳卒中を患った後は静かに暮らし、1898年、71歳で亡くなった。
日本では貧しく、十分な教育を受けることができなかったが、遭難を機に、アメリカで生活し、見聞を広げ、幕府側にも、明治維新前後の有名な人達にも大きな影響を与えたのが、わかりました。
献立 568kcal(7.1単位)
生姜ごはん 精白米、出汁昆布、油揚げ、食塩、薄口醤油、酒、しょうが
たらの照り焼き たら、えのきだけ、こねぎ、酒、食塩、醤油、みりん、ミニトマト
ささみの青紫蘇巻き ささみ、酒、醤油、食塩、しそ
エッグカップ 卵、マヨネーズ、食塩、こしょう、ごま
蒸しかぼちゃ かぼちゃ
人参とレーズンの和え物 人参、レーズン、酢、油
ほうれん草ののり和え ほうれん草、のりの佃煮、醤油
すまし汁 かつお・昆布出汁、生麩、人参、みょうが
果物 キウイ、オレンジ